2015年5月29日金曜日

「モンタージュ」 オルガンを聞くその3

鴇田智哉
 

春の滝見る往来の畳あり   生駒大祐

春の滝を見ていると、そこに人の往来が見えてくる。
春の滝と往来とは、明るい半透明のけむりのようにある。

そして、その移りかわるけむりのなかに、
畳はくっきりと、いかにもくっきりと水平にあり続けている。

この句を読んでまず、そういう景が浮かんだ。
やがて、回帰、という言葉が私の頭をかすめた。

言葉のモンタージュとして読んでいいのではないだろうか、この句は。

「オルガン」1号より

2015年5月8日金曜日

『君に目があり見開かれ』座談会を終えて

宮本佳世乃


ぱきっとした黄色の、薄くて軽い句集。
活版印刷のようなフォントの句集。
昔の少年漫画のような紙の句集。
なんだか最後に写真が入っている句集。
各章で仮名遣いが違う句集。

2月の座談会のことを思いだすと、私自身「レンアイ句集」という、
表紙の脇に書かれた白い小さいことばに、引っ張られすぎたのかなぁとも思います。
そこに衒いを感じてしまったというか。

座談会は終わってしまいましたが、わたしがいいなとおもった句は、

巻貝の殻に砂金や卒業す
紫陽花は萼でそれらは言葉なり
知らない町の吹雪のなかは知っている
ゆふぐれの蜂蜜ごしに濃き夕日
くらがりに雉のをさまるお昼どき
藻の花へこちらから雨がゆきます
貸しボート左の空が明るくて
煙ごしに祭のほとんどと逢へる
ゆく鳥の目はさきをゆく秋の空
雪雲のまはりの雲のほぐれ果つ
末黒野へ罫線入りの紙飛行機
冷えた手を載せれば摑む手であつた
谷に日のあたる時間や春の鳥

そして、短歌に焦がれているようだと感じた句も。

遠いと声が見えない春の海に来たが
また噓を君が笑つて蛾が傷む
こころ未だぬかずにあるよ花烏賊よ
ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふ
月は春かつての最寄駅に降りず

なかにはページ、もしくは見開き単位で読ませる向きもあったと思うんですが、
ちょっとやりすぎだなと思えるところも。
それは私が、読むうえで無意識になにかに引っ張られたというか、
コンテクストを持ち込みすぎたと言えるのかもしれない。
コンセプチュアルな句集に見せなくても、
章立てはどうするか、句の並びをどうするかなど、
「読ませるための仕掛け」はじつはいくつもできて。
まぁ、コンセプチュアルにするかどうかも含めて、そこが作り手側の醍醐味でもあるわけですが。

句集を編むのは、作者だけが経験しうる、とてもしあわせな時間ということを再認識しました。

あ、最初の話に戻ると、この句集の黄色とか、薄さとか、軽さとか、紙とか、
すべてがバランスが取れていると思ってます。

そうそう、座談会はバレンタインデーでした。なんとなく偶然を感じました。

「映像」 オルガンを聞くその2

生駒大祐



ぶらんこの鎖が空にまつすぐに 鴇田智哉

鴇田智哉の俳句は映像的だ、と言うと、もしかすると反論があるかもしれない。
勿論、鴇田俳句が歴史的な意味での客観写生派の俳句と毛色が違うのはたしかだ。
しかし、それでも僕が鴇田俳句を読むとき、鮮明な映像が頭に浮かぶ。
客観写生派と違うのは、その映像が瞬時にして頭から消えてしまうという点においてである。

掲句もそうだが、鴇田俳句に意味において超現実的な景はほとんど出てこない。
掲句はぶらんこの鎖を描写した俳句、と当然読むことができる。
一瞬おいたのち、ではあるが。
句を読んで鎖が空にまっすぐに伸びた鮮明なその映像を見たのち、
一瞬おいてちゃんと意味を汲み取ろうとすると、その映像はすぐにぼやける。
ぶらんこの鎖は空に向かって伸びているわけではない、という常識によって、
(あるいはニュートンの呪縛かもしれない)
意味解釈回路がその映像を否定にかかる。

そして、句は平凡なぶらんこの景に着地し、
鎖が浮遊して空から伸びているという魅力的な残像のみが残る。

鴇田俳句はだまし絵のように、現実の向こう側を少しだけ見せてくれる。

「オルガン」1号 より

2015年5月1日金曜日

「フラット」 オルガンを聞く その1

生駒大祐


記号うつくし空港の通路を蝶 田島健一

田島健一の俳句は非常にフラットである。
例えば、言葉一つ一つを繋ぐ糸の張力のようなものを考えると、
本来言葉たちの重さの違いによってそれらはバラバラであるはずなのに、
田島俳句のそれは一読不自然なほどに均一だ。
それを、僕はフラットだと表現する。

このことは、田島俳句の持つ切れの問題と深く絡む。
意味上の切れだけを俳句の切れだと考える人には、
田島俳句はしばしば不自然なものに見えるだろう。
(切れが多すぎるor少なすぎる)
掲句を「『空港の通路を蝶が飛んでいる』風景を『記号』に見立てたうえで『美しい』と表現した」
と解釈することは勿論可能だし、もしかすると自然なのかもしれない。

だが、僕はそうは読まない。

僕がこの俳句を読むとき、「うつくし」は「記号」に係り、「空港」「通路」「蝶」それぞれに係り、
さらに「の」や「を」にも係る。
もっと言えば、この句のすべての言葉同士は細い糸でうすく繋がっている。
意味や言葉そのものではなく、言葉の相互の繋がり方のほうを提示するのが、
田島俳句の目的ではないか。

フラットな糸のその純粋なうつくしさ。


「オルガン」1号 より