2015年8月11日火曜日

「しっとりと無邪気に」 オルガンを聞くその4 

生駒 大祐

知恵の輪の片方に湧く泉かな 宮本佳世乃



今回の宮本佳世乃の連作に水に関係する語が多く表れることはおそらく偶然ではない。
「夕立」「水族館」「フェリー」「滴る」「水色」「桟橋」etc.
それはもちろん作為も働いているだろうが、
佳世乃が一句を成すとき、あるいは佳世乃俳句が一句に収まろうとするとき、
何か粘度を持った言葉が必要なことは確かだと思う。
それは単純な話で、佳世乃俳句の切れが「つなぎ」を必然的に求めることがその原因だ。
切れとつなぎは定義から行けば矛盾する方向性ではあるが、
「切字に用る時は四十八字皆切字なり。用ざる時は一字も切字なしとなり」と芭蕉が伝えるように、
切れと非・切れは相対的にしか働かない。
その意味で、佳代乃俳句の切れは石鹸玉が伸びて分れるが如くに軽やかでありながらしっとりと水気を孕んだ切れである。




掲句、「に」の後に切れが確かにあるが、同時にその「に」は無機質な金属製の知恵の輪と滾々と水を湛えた泉とを有機的につなぐ。
「片方」という片言めいた言い回しも、佳世乃俳句の輪郭を無造作(であるかのように)に形作る。
ふたつの金属の繋がる完成の瞬間こそがそれらが離れ離れとなる動機を作る、未完と完の往還の宿命をそもそも持つ「知恵の輪」と、
水が入れ替わることで永遠に完成することのない「泉」。

そのか細い性質のリンクをなんと無造作に、あるいは無邪気に佳世乃はつなぐことであろうか。

「オルガン」2号