2015年5月8日金曜日

「映像」 オルガンを聞くその2

生駒大祐



ぶらんこの鎖が空にまつすぐに 鴇田智哉

鴇田智哉の俳句は映像的だ、と言うと、もしかすると反論があるかもしれない。
勿論、鴇田俳句が歴史的な意味での客観写生派の俳句と毛色が違うのはたしかだ。
しかし、それでも僕が鴇田俳句を読むとき、鮮明な映像が頭に浮かぶ。
客観写生派と違うのは、その映像が瞬時にして頭から消えてしまうという点においてである。

掲句もそうだが、鴇田俳句に意味において超現実的な景はほとんど出てこない。
掲句はぶらんこの鎖を描写した俳句、と当然読むことができる。
一瞬おいたのち、ではあるが。
句を読んで鎖が空にまっすぐに伸びた鮮明なその映像を見たのち、
一瞬おいてちゃんと意味を汲み取ろうとすると、その映像はすぐにぼやける。
ぶらんこの鎖は空に向かって伸びているわけではない、という常識によって、
(あるいはニュートンの呪縛かもしれない)
意味解釈回路がその映像を否定にかかる。

そして、句は平凡なぶらんこの景に着地し、
鎖が浮遊して空から伸びているという魅力的な残像のみが残る。

鴇田俳句はだまし絵のように、現実の向こう側を少しだけ見せてくれる。

「オルガン」1号 より

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